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Dの意志は日本にも存在した!?吉田松陰が伝説と言われる理由

吉田松陰と聞くと、いろんな有名な格言で名前を聞いたことあったり、
時代を変えた偉人の1人というイメージの人も多いのでは?

ボク自身、最も好きな偉人の一人で、キツイ時や気合を入れたいときに
彼の格言や書籍に何度も心震わされた経験があります。

 

説の男の正体はとんでもない天荒人間!?

そんな吉田松陰ですが、
実は、今日ボクたちが知っている人物像は、
松陰死後に弟子たちが神格化、伝説化したものだった
という事をご存知でしたでしょうか?

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(左から)高杉晋作吉田松陰久坂玄瑞の像(萩往還公園)吉田松陰.comより引用


彼自身の経歴を調べると、あれ、全然イメージと違う!!
思ってたのとちゃうや~~ん、ってなります(急な関西弁w)

確かにすごいんです!!

たったの9歳で教壇に立ったりしてすごいんですけど、
本人がなにか偉業を成し遂げたわけでもない・・・。
なんなら、わりと破天荒な行動とるので、何度も投獄されてたりします。


では、なぜ??
こんなにも『伝説の偉人』として挙げられているのでしょうか?


その秘密、実は・・・
『志』と『受け継がれる意志』がキーワードだったんです。
特別なことをするのではなく、その『源泉』が大事。
なので、

吉田松陰を学ぶことで、ボクたちの日常、仕事やプライベートにすぐ活かせて、
かつ、「なんか他の人とは違うな?」と思わせられるようなエッセンス
見えてきたのでご紹介していきます!!

 

格化・伝説化されている理由とは?

吉田松陰の門下生はわずか100名弱、たった2年半という短期間にも関わらず、
その中から数多くの偉人が輩出されていることが非常に評価されています。
松陰はそんな生徒達に対して、とんでもない教えを説いていたのではないか、
と世界中でいまだに研究が続いています。

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田松陰の生い立ちは?
簡単に吉田松陰の経歴について触れていきます。

天保元年(1830年)、長門国の萩の杉家で生まれました。
松陰は5才の時、叔父・吉田大助賢良の仮養子となり、吉田家の人間となります。

そんな彼の教育を担当した叔父・玉木文之進という人物がいます。
ビシバシと容赦なく、恐ろしいほどのスパルタ教育を行ったそうです。
松陰の少年時代は、5才にして終了のお知らせ。
その日から許されたのは漢書を読むか、何かを書くかのみ。
松陰は勉強中、頰に虫が止まったため払いのけたところ、
叔父の玉木は血相を変えて叱りつけられたそうです。
(こんなん、恐ろしすぎますよねw)

日本全体に影響を与えた、松陰のエネルギーの源、
それは玉木による猛烈な教育ではないか?という説もあります。

 

こうした厳しい教育の成果が実り、
なんと9才にして「明倫館」にて教鞭を持つことになります。

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明倫館 正面/吉田松陰.comより引用

 

その後成長した松陰は、19歳の時に長崎で海外国の強さを知ります。
「こんな大変な時代だ。様々な場所を訪れ、見聞を広めたい。
この国のために何ができるのか、考えなければならんのじゃ!」
と外に出て色んなことを学びたい欲求に駆られた切欠の出来事です。

ここから松陰の破天荒っぷりが開花していきます。

(ちなみに、あまり知られていませんが、当時の日本には何度も異国船が来ていたそうです。)


そして、行動が早い松陰は、カジュアルに脱藩してしまいますw
当時、藩の外へ出る場合、許可証が必要でした。
これを松陰は、通過書の発行を待っていたら人との約束に遅れるから
という理由で、許可証なしに出発してしまいます。
(ちなみにこの約束は仇討ちの約束だとか)

 

ここではあまり触れませんが、
二十一回猛挙』というものがあり、その記念すべき第1弾がカジュアル脱藩でした。

  ※『二十一回猛挙』・・・すごい行為、ルール違反、破天荒なこと


下村塾の始まりは
あまりにやらかすので、当時25歳の松陰は投獄されてしまいます。
獄中生活では、読書と思索に没頭。
入獄の半年後には、囚人たちの間で読書会を組織してしまいます。

そんな松陰の父と兄が、獄中での噂を耳にして、
自宅でも読書会をやってみては?と提案します。
これが吉田松陰による「松下村塾」のはじまりでした。


身分は問わず、来るもの拒まずというスタンスで弟子を受け入れていきます。
内容も斬新で、門下生と共に畑仕事などしたり、
何かを教えるのではなく議論が中心だったそうです。

誰でもいいとはいえども、8割以上が武士階級でした。

松陰はじめ、弟子である高杉や久坂も、
武士階級こそが民を率いて国難に立ち向かうべき、という考え方でした。
こうして日本の未来を憂い、国を率いる武士の若者を育てる場となっていきます。

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松下村塾の講義の様子・再現。(松陰記念館)/吉田松陰.comより引用


切にした「教方針」とは

『 自らを律し、志をもち、行動すること 』

吉田松陰にとってそもそも「学問」とはなんであったのか。
彼は弟子たちに「学者になるな」と言っていました。
人間は実行がなければ意味がないと言う考えです。
頭の中にある考えは行動し、形となって初めて社会に影響を与えます。
とにかく、実行第一!正しいと思えば行動する!
行動重視が、吉田松陰の教育方針でした。


そしてなによりも強烈だったのが、松陰の純粋無垢な
「日本という国をもっとよくしたい」という意志でした。

当時の「国家」であった幕府の倒壊(改革)を目指し、
藩にすら迷惑を掛けていた松陰でしたが、
根底にあるものは、日本をよくしたいという純粋な気持ちでした。


混乱する日本の中では、幕府も藩もあてにはならない。
日本が危ない、諸外国から植民地にされてしまう
今の日本を改革するには、身分に分け隔てなく
志ある者が一人一人自覚を持って立ち上がらなくてはならない。


そんな真っすぐすぎるくらいの意志が
弟子たちを奮い立たせ、そして脈々と受け継がれていきました。

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松下村塾門下生たちの貴重な写真吉田松陰.comより引用

 

け継がれる意志

安政6年10月27日(1859年11月21日)。
松陰は30歳の若さで亡くなります。

弟子たちに向けて残した『留魂録』の冒頭には、以下のような事が記されていました。

 

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

  この身が武蔵野に朽ち果てても、その魂は残してゆく――。

 

松陰の下で学んだ弟子たちは非常に仲が良かったそうです。
どちらが優れているか比べるのではなく、互いに敬意を払い、
それぞれが成すべきことを成す。無駄なことは一つもない。

こうして、松陰の意志は受け継がれ、弟子らはその志を実行に移すべく、
幕末の動乱に身を投じることとなるのでした。

 

日の目を浴びた成功者、芽が出ずに終わった非成功者
いずれも代理のきかない、かけがえのない人間である。
塾生からどれだけ多くの成功者を輩出したかという数の大きさには、
もともと何の真実もない。
それを前提にしながら理想の学校、理想の教師、理想の教育を
議論し合うのは無意味な作業であることに気づくであろう。
社会的地位の大小が、人間としての価値、いかに意味ある人生を生きたかを
どこまで正確に言い表すことができるかは、はなはだ疑問である。
(海原徹著「松下村塾明治維新」あとがきより)


誰かと比べること、社会的地位を得ること、
数の大きさで計ること、いずれも共通して言えるのが
「他人からの承認」を前提とした立場であること。

 

その立場からいち早く脱して、
一体何のためにこの命に使うか、その志を立て、真に自律することで、
本当の意味で「好きな生き方を見いだせた」と言えるのではないでしょうか。


そんなことを、最も明快に承知していたのが、

松陰その人だったのかも知れません。

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大正時代の松陰神社wikipediaより引用

 

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